ラマナ・マハルシの教え
日本ラマナ協会前会長故柳田侃先生から教えていただいた「ラマナ・マハルシの教え」の理解をより深めるため、実践して感じたことや「TALKS WITH SRI RAMANA MAHARSHI ラマナ・マハルシとの対話」の直訳、感想などを記します!(日本ラマナ協会は一切関係ありません)
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Talk 28 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 28 ラマナ・マハルシとの対話>
*2009年11月22日翻訳開始、2010年3月29日翻訳終了、2013年7月28日修正

【質問者】
思考の調節と呼吸の調節との相互関係は、何でしょうか?

【マハルシ】
思考(知的な)と呼吸、血液循環など、(植物のようにただ生きている)活動は、同じこと、つまり、個体の命の双方の異なる様相です。
どちらも、個体の命に依存します(または、比喩的に「帰する」、または、「内在する」)。
その人特有の特徴と他の想念は、生命活動のようにそこから突然生じます。
もし、呼吸、または、他の生命活動が、強制的に抑制されると、思考もまた抑制されます。
もし、思考が強制的に鈍化され、そして、一点にくぎ付けされると、生命活動の中の呼吸が、鈍化され、規則正しくされ、命と共生できる最低の水準に制限されます。
どちらの場合にも、注意を散らすさまざまな思考は、一時的に終わります。
相互の影響は、他の面でも顕著です。
生きるための意志を調べなさい。
それは、考える力です。
それは、生命を維持し、他の生命力がほとんど使い果たされるとき、命を保持し死を遅らせます。
そのような意志力の欠如の中では、死は早められます。
このように、思考は、肉体の中でそれとともに、一つの肉の身体からもう一つへ命を運ぶと言われます。

【質問者】
(1)集中と(2)気を散らすものを解き放つためのいくつかの助けとなるものはありますでしょうか?

【マハルシ】
肉体的には、消化器官と他の器官は、刺激がない状態を保たれます。
従って、食べ物は、質も量も加減されます。
刺激がない物は、食べられます。トウガラシの実、過度の塩、タマネギ、ワイン、アヘンなどを避けること。
便秘、眠気と興奮、そして、それらを引き起こすすべての食べ物を避けなさい。
心の中で、一つの事に関心を持ちなさい。そして、それに心を固定しなさい。
このような関心に、その他すべてのことを除外するようにすべて吸収させなさい。
 *Let such interest be all-absorbing to the exclusion of everything else.
これが、平静(vairagya)と集中です。
 *GROSSARY:vairagya:dispassion:平静、non-attachment:無執着
神、または、mantraが、選ばれても良いです。
心は、微細なそれをよく理解し、その中に吸収されることで、本質的に内に備わっている力を得ます。

【質問者】
気を散らすものは、過去から受け継がれた傾向から生じます。
それらも、解き放つことができますでしょうか?

【マハルシ】
はい。
多くの者は、そのようにしてきました。
それを信じなさい!
彼らは、できると信じたからそのようにしました。
Vasanas(傾向)は、消し去らせることができます。
 *GROSSARY:vasana:現世の心の習慣。潜在的な傾向、または、印象
それは、vasanasから自由で、なおかつ、それらの中心部であるところに集中することによって行われます。

【質問者】
どのくらい、実践は、続けることになっているのでしょうか?

【マハルシ】
成功が遂げられるまで、そして、ヨーガの解放が永続的になるまでずっと。
成功が成功をもたらします。
もし、一つの気を散らすものが克服されたら、次が克服されるなど、すべてが、ついに克服されるまでずっと。
過程は、一つずつ、それぞれ生じる時に、その人の力で滅することによって敵のとりでを減らすことのようです。

【質問者】
この過程の目標は、何でしょうか?

【マハルシ】
実在を実現すること。

【質問者】
実在の性質は、何でしょうか?

【マハルシ】
(a)始まり、または、終わりのない、つまり、始まりも終わりもなく続く永遠の存在。
(b)至る所に、時間・空間的に終わりのない、無限の存在。
(c)すべての形、すべての変化、すべての力、すべての物質、すべての精神の根底にある存在。
大多数の現象は、変化し、消滅するのに対し、唯一の実体は、いつも持続します。
(d)三つ組、すなわち、知る者、知ること、知られるものに取って代わる唯一の実体。
三つ組は、時間と空間の中で現れるだけであるのに対し、実在は、それらを越えて、それらの背後に横たわります。
それらは、実在の真上を覆う蜃気楼のようです。
それらは、妄想の結果です。

【質問者】
もし、「私」もまた錯覚であれば、では誰が錯覚を解き放すのでしょうか?

【マハルシ】
「私」は、「私」と、まだ「私」としてとどまるという錯覚を解き放します。
それが、真我実現の逆説です。
実現された者は、その中で、いくつかの相反する矛盾を見ません。
bhakti、つまり、私はIswaraに接近し、Iswaraの中に吸収されるために祈る場合を調べなさい。
 *GROSSARY:bhakti:devotion:帰依
           Isvara:神。すべての創造物の主として彼の様相の中の至高の存在
私は、その時、理性・理屈を越えた信頼と集中の中で私自身を明け渡します。
その後、何が残存しますか?
本来の「私」の場所の中で、完全な自分自身の明け渡しは、「私」が失われた中で、残りものである神に委ねます。
これは、最も高度の帰依の形(parabhakti)か、prapatti(明け渡し)か、vairagyaの極みです。
あなたは、「私の」所有することというあれやこれやを放棄します。
それどころか、もし、あなたが「私」と「私のもの」を放棄すれば、すべては一挙に放棄されます。
まさにその、所有することの種が失われます。
従って、悪は、つぼみの状態で摘み取られるか、胚芽それ自身の状態で強い力で押しつぶされます。
平静(vairagya)は、これをするために、とても力強いに違いありません。
それをするためのひたむきな熱心さは、水中にとどまった人が、彼の命のために水面に上がろうとし続けるという熱心さに等しいに違いありません。
 *Eagerness to do it must be equal to that of a man kept under water
   trying to rise up to the surface for his life.

【質問者】
このやっかいで、骨の折れる困難は、師の助けか、Ishta Devata(崇拝のために選ばれた神)とともに、減少させることができないのでしょうか?
 *GROSSARY:Ishta Devata:人が、崇拝、または、じっと見詰めたいところの神
それらは、私たちの真我をありのままに見る、それら自身の中で私たちを変える、真我実現の中へ私たちを連れて行くための力を与えることができないでしょうか?

【マハルシ】
Ishta Devataと導師は、この道に対してとても強力な助けです。
しかし、効果的であるための助けは、あなたの努力もまた必要とします。
あなたの努力は、sine qua non(必要条件?)です。
太陽を見るべきなのはあなたです。
眼鏡と太陽が、あなたのために見ることができますでしょうか?
あなたは、あなた自身は、あなたの本質を見なければなりません。
多くの助けが、それをするために必要とされるわけではありません!

【質問者】
私の自由意志と全能の神の圧倒的な大きな力の関係は何でしょうか?
(a)神の全知は、自我の自由意志と一致するでしょうか?
(b)神の全能は、自我の自由意志と一致するのでしょうか?
(c)自然法則は、神の自由意志と一致するのでしょうか?

【マハルシ】
はい。
自由意志は、見ることと意志という有限の能力に対する現在の現れです。
同じ自我が、「法則」、または規則の経過の中に落ちていくようにその過去の活動を見ます。つまり、法則の経過という点において結びつけるものの一つであるその自身の自由意志を見ます。
神の全能と全知は、彼自身の自由意志の出現を通して行為したことがある自我によって、そのとき見られます。
そのように、彼は、自我が出現に従うに違いないという結論に達します。
自然法則は、神の意志の表れで、それら(自然法則)は、横たわったままです。

【質問者】
自然科学、心理学、生理学、哲学などの勉強は、(1)ヨーガの解放の今の技術、(2)実在として一つである状態の直感的な理解の役に立ちますでしょうか?

【マハルシ】
ほんの少し。
多少の知識は、ヨーガのために必要とされ、それは、本の中で見いだされるかもしれません。
しかし、実践の応用は必要とされることで、個人の実例、個人の接触、個人の系統立てた教えは、もっとも役に立つ助けです。
その他に関しては、人は、直感で知られた真実、すなわち、その機能と生まれつきの性質を彼自身に骨折って確信させるかもしれません。しかし、実際の直感は、感情と似ていて、実践と個人の接触を必要とします。
単なる本から学んだ知識は、どれも大いに役立つことはありません。
実現後、すべての知的な積み荷は、役に立たない重荷で、捨て荷として投げ捨てられます。
自我を投げ捨てることは、必要な、当然のことです。

【質問者】
夢見の状態は、目覚めの状態とどのくらい異なるのでしょうか?

【マハルシ】
夢見の状態では、人は、異なる身体を持つようになります。そして、彼らは、感覚接触の夢で、この身体に再び入ります。

【質問者】
幸福は、何でしょうか?
それは、Atman、または、客体、または、主体と客体の接触の中に本来備わっているのでしょうか? 
 *GROSSARY:Atman:Self:真我
しかし、私たちは、私たちの出来事の中で幸福を見ません。
それは、実際に、いつ生じるのでしょうか?

【マハルシ】
望ましいタイプに接触、または、それについての記憶があるとき、そして、望ましくないタイプから自由、または、それについての記憶があるとき、私たちは、幸福であると言います。
そのような幸福は、相対的で、より良い喜びと呼ばれます。
しかし、人びとは、絶対的な、永遠の幸福を望みます。
これは、客体の中では存在せず、絶対的なものの中で存在します。
それは、苦しみと喜びから自由な安らぎ、つまり、中立の状態です。

【質問者】
どのような意味で、幸福が、私たちの本性なのでしょうか?

【マハルシ】
完全な至福は、Brahmanです。
 *GROSSARY:Brahman:The Supreme Being:至高の存在、the Absolute:絶対的なもの
完全な安らぎは、真我にあります。
それは、ただ存在し、意識しているだけです。

同じ結論は、(a)形而上学的に判断され、そして、(b)Bhakti Marga(帰依の道)によって推論され、達せられます。
私たちは、至福のために神へ祈り、恩恵によって、それを受け取ります。
至福を授けるものは、至福そのもので、その上、無限であるに違いありません。
従って、Iswaraは、無限の力と至福の人格神です。
Brahmanは、至福、人格を持たない、絶対的です。
有限の自我、それらの源をBrahman、それから、Iswaraから得ることは、彼らの崇高な生まれつきの性質、至福のみの中です。
生物学的に、そのような働きは、幸福を伴われるので、有機体は役目を果たします。
私たちの成長を助けるというのは、喜びです。そして、食べ物、運動、休息、社交的な良い性質。
喜びの心理学(と形而上学)は、たぶん、これです。私たちの生まれつきの性質は、本来、完全な至福の一つです。
実際にありえそうな仮説として、これを調べなさい。
創造物は、完全な神性によって、神と自然(maya、または、prakriti)になります。
 *Creation is by the entire Godhead breaking into God and Nature (maya or prakriti).
 *GROSSARY:maya:illusion:錯覚
           prakriti:nature:自然、生まれつきの性質
 *Wikipedia:prakriti:現象世界の根源的物質(個々の物は、prakritiが変化したもの)
このmayaは、二つの部分、(para)本質を支えることと(apara)五つの要素、心、知性、自我(八つの部分から成る)から成ります。
 *GROSSARY:para:higher:より高い
           apara:the lower:より低い
自我の完成は、ある時点で突然壊され、そして、不足は、何かを得る、または、何かをするための強い願望を引き起こすことを感じられます。
その不足が、その強い願望の達成によって解決されるとき、自我は幸福で、最初の完成は元の状態に戻されます。
従って、幸福は、私たちのありのままの状態か、または、生まれつきの性質であると言えるかもしれません。
喜びと苦しみは、相対的で、欲しいものを満たすことによって進展し、私たちの有限の状態に言及します。
もし、相対的な進展を止められ、完全な安らぎという生まれつきの性質から成るBrahmanの中に吸収されとけ込むと、その魂は、一時的な喜びを相対的に持つことをやめ、完全な安らぎ、至福を楽しみます。
 *If relative progress is stopped and the soul merges into Brahman
   - of the nature of perfect peace - that soul ceases to have relative,
   temporary pleasure and enjoys perfect peace - Bliss.
従って、真我実現は、至福です。そして、それは、千里眼ではない、制限のない精神的な目(Hence)として真我を実現することです。そして、それは、最も高度の自分自身の明け渡しです。
 *GROSSARY:jnana drishti:eye of wisdom:知恵の目
Samsara(世界の繰り返し)は、悲しみです。
 *GROSSARY:Samsara:the cycle of births and deaths:生と死の繰り返し

【質問者】
それではどうして、創造物と限られたものとしての現れ、Samsaraは、このように悲しみと悪でいっぱいなのでしょうか?
 *finitisedの訳が見つからなかったため「限られたもの」としました

【マハルシ】
神の意志!

【質問者】
なぜ、神の意志は、そのようにそれをするのでしょうか?

【マハルシ】
それは、計り知れないです。
動機がないことは、その力に起因することがあります。つまり、強い願望がない、成し遂げることに終わりがないは、その無限の力、全知全能の存在のためと断言をされることがあります。
神は、彼の存在の中で起こる活動とは無縁です。そして、太陽と世界の活動を比較しなさい。
責任と動機をそれが多くなる前に神のせいにすることは意味がありません。
しかし、出来事のあらかじめ決められた成り行きに対する神の意志は、自由意志問題(vexata quaestio)の良い解決策です。
もし、心が、私たちに降り掛かる、または、私たちによって委ねられるか、省かれるところの不完全で不十分な個人の性質という感覚のせいで落ち着きがないとき、彼がしたいと思うことで行為し苦しむこと、そして、私たち自身を全知全能の定められた道具として見なすことによって、責任と自由意志という感覚を落とすことは賢明です。
 *If the mind is restless on account of a sense of the imperfect and unsatisfactory character
   of what befalls us or what is committed or omitted by us,
   then it is wise to drop the sense of responsibility and free-will by regarding ourselves
   as the ordained instruments of the All-wise and All-powerful,
   to do and suffer as He pleases.
彼は、すべての重荷を支え、私たちに安らぎ与えます。

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ookuwa

Author:ookuwa
私は、英語がとても苦手なのですが、ラマナ・マハルシの教えをより深く理解するため、「Talks」の翻訳(直訳)をしています。
 * Talks直訳について
もし、転記などをされた方は、転記元(当ブログ)を明記してください(転記などをされた後、その方などが著作権を主張されますと困りますので)。
なお、「Talks」翻訳時に、日本ラマナ協会の故柳田前会長が開催した「神戸ラマナ講座」で配布された資料、柳田前会長が翻訳された本、福間巌さんが翻訳された本、shibaさんの「アルナーチャラの聖者」を参照しています。また、mixiで知り合った方からいろいろなアドバイスをいただきました。(感謝!)
*1994年日本ラマナ協会入会、2008年退会、愛知県

【Talksなどの修正・追記履歴】
2018.01.22 マハルシの年表
2016.03.13 Talksなどのまとめ
2014.12.22 マハルシの文献
2014.02.15 真我の探求方法



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