ラマナ・マハルシの教え
日本ラマナ協会前会長故柳田侃先生から教えていただいた「ラマナ・マハルシの教え」の理解をより深めるため、実践して感じたことや「TALKS WITH SRI RAMANA MAHARSHI ラマナ・マハルシとの対話」の直訳、感想などを記します!(日本ラマナ協会は一切関係ありません)
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Talk 25 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 25 ラマナ・マハルシとの対話>
*2009年7月31日翻訳終了、2012年12月23日修正

前の時に、Self-Realizationの著者、B. V. Narasimhaスワミが、尋ねた。
 *前の時に?(うまく訳せません。。。):On a former occasion
私は誰ですか?
それは、どのようにして見いだされるのでしょうか?

【マハルシ】
その質問をあなた自身に尋ねなさい。
身体(annamaya kosa)とその機能は、「私」ではありません。
 *GROSSARY:annamaya kosa:sheath of gross matter:粗雑な物質の鞘
より深くなると、心(manomaya kosa)とその機能は、「私」ではありません。
 *GROSSARY:manomaya kosa:sheath of mind:心の鞘
次の段階は、疑問を持つようになります。
「これらの思考は、どこから生じるのか?」
思考は、自発的か、表面的か、分析的なものです。
それらは、知性の中で働きます。
そのとき、誰がそれらに気付いているのでしょうか?
思考の存在、それらのはっきりした概念とそれらの働きは、個人に明らかになります。
その分析は、人の他と区別される際立った個性は、思考の存在とそれらの連続して起こる結果を知覚させるもののように働くという結論になります。
この他と区別される際立った個性が、自我、または、人びとが言う「私」です。
Vijnanamaya kosa(知性)は、「私」の鞘にすぎず、「私」自身ではありません。
 *GROSSARY:Vijnanamaya kosa:sheath of intellect:知性の鞘
さらに深く探求すると疑問が生じます。「この『私』は、誰ですか? それは、どこから来るのですか?」 「私」は、夢のない深い眠りの状態では気付いていませんでした。
それが生じると同時に、夢のない深い眠りの状態は、夢見の状態、または、目覚めの状態に変わります。
しかし、私は、ちょうど今、夢見の状態に関心がありません。
目覚めの状態の今、私は誰でしょうか?
もし、私が、夢のない深い眠りの状態から生じたのであれば、「私」は、無知にくるまれていたことになります。
そのような無知な「私」は、聖典に書かれていることでも、賢明な聖典が肯定することでもありません。
「私」は、「夢のない深い眠りの状態」さえ超越しています。「私」は、今、ここに、夢のない深い眠りの状態とさらに夢見の状態もまた最初からずっとあるに違いありません。そのような状態の特性を持たないで。
 *「私」は、三つの状態の特性を持たず、三つの状態を越えて、あり続けている
「私」は、従って、これら三つの状態の根底にある(anandamaya koshaを超越した)制限のないものや現象の根底にある本質であるに違いありません。
 *三つの状態:目覚め、夢見、夢のない深い眠り
 *GROSSARY:anandamaya kosha:the sheath of bliss:至福の鞘
 *第四の状態:至福の鞘
 *第四を越えた状態(至福の鞘を越えた状態):純粋な至福、真我
「私」は、手短に言うと、五つの鞘を越えています。
 *五つの鞘:肉体の、生命の、心の、霊知の、至福の
   *霊知の:霊妙な(人知(人間の知恵)でははかり知れないほどすばらしい)知恵
 *福間さんが訳された「ラマナ・マハルシとの対話 第1巻」55ページ参照
次に、自分自身ではないすべてを捨てた後に残された残りものが、あり続けている-意識-至福(Sat-Chit-Ananda)である真我です。
 *GROSSARY:Sat-Chit-Ananda(Satchitananda):being consciousness-bliss
          :ある(あり続けている) 意識-至福
 *Sat(ある)の輝きがChit(意識)であり、その性質(本性)がAnanda(至福)

【質問者】
真我は、どのようにして知られる、または、実現されるのでしょうか?

【マハルシ】
相対性から成る現在の段階を超えなさい。
 *相対:互いに他との関係をもち合って成立、存在すること
分離した実在(真我)は、それ自身から離れている何か(真我ではないもの)を知っているように見えます。
つまり、主体は、客体に気付いているのです。
見る者は、drikです。そして、見られるものは、drisyaです。
 *GROSSARY:drik:he who sees:見る者、the subject:主体、主観
           drisya:that which is seen:見られるもの、the objec:客体、客観
これら二つの根底にある一つである状態があるはずです。そして、「自我」として生じます。
この自我は、chit(知性)の性質を帯びます。そして、achit(無知覚の客体)は、ただ単にchitを否定することです。
 *GROSSARY:chit:Consciousness:意識、気付いて自覚していること
           achit:not sentient:知覚力のない、感覚力のない
従って、根底にある本質は、主体と客体でないものと似ています。
drikを探し求めること。すべてのdrisyaが消滅するまで。完全なdrikだけが残存するときまで、drikは、徐々に微細になるでしょう。
この過程は、drisya vilaya(客観的な世界の消滅)と呼ばれています。

【質問者】
なぜ、客体drisyaは、排除されなければならないのですか?
真実は、客体をありのままに、さらに保持している状態で理解されることはないのでしょうか?

【マハルシ】
理解されることはありません。
drisyaの排除は、主体と客体というそれぞれの個性の排除を意味します。
客体は、実在していません。
すべてのdrisya(自我を含む)は、客体です。
実在しないものを排除すると、実在が残存します。
ロープが、蛇と間違えられるとき、真実が明らかにされるためには、蛇という間違った知覚を取り除くだけです。
そのような排除がなければ、真実は、明らかにならないでしょう。

【質問者】
客観的な世界の消滅(drisya vilaya)は、いつ、どのように達成されるのですか?

【マハルシ】
相対的な主体、すなわち心が排除されるとき、完全になります。
心は、主体と客体の創造者で、二元的な観念の原因です。
 *観念:物事について抱く考えや意識
従って、心は、有限な自分自身という正確さに欠ける間違った漠然とした考えの原因であり、そのような論理性に欠ける間違った考えの結果として生じる悲惨です。

【質問者】
この心は何ですか?

【マハルシ】
心は、命という現れの一つの形です。
大きな木片や精巧な機械は、心と呼ばれません。
生命力は、生命活動を明らかにし、そしてまた、心として知られている気付いて自覚している現象を明らかにします。

【質問者】
心と客体の関係は、何ですか?
心は、それとは違う何か、すなわち、世界と関係しているのですか?

【マハルシ】
世界は、目覚めている状態と夢を見ている状態で「印象を受けて感じている」か、あるいは、感覚器官による知覚と思考の対象です。両者は、心の活動なのです。
もし、目覚めている、夢を見ている思考のような活動がなければ、「感覚器官による知覚」や「世界」という推測されたものはないでしょう。
夢のない深い眠りの中では、そのような活動はなく、そして、「客体と世界」は、夢のない深い眠りの中の私たちに対して存在しません。
従って、「世界の実在」は、夢のない深い眠りからの出現というその行為によって創造されたのかもしれません。しかも、実在は、夢のない深い眠りの中でその生まれつきの性質を取り戻している魂によって、飲み込まれるか、消滅するかもしれません。
世界の出現と消滅は、クモがクモの糸で巣を作り出し、それから、引っ込めることに似ています。
クモは、三つの状態、つまり、目覚め、夢見、夢のない深い眠り、すべてであるこの根底にあります。そして、人の中にあるそのようなクモは、Atman(真我)と呼ばれています。ところが、(太陽から生じると見なされている)世界に関して同じことが、Brahman(至高の精神)と呼ばれています。
 *GROSSARY:Brahman:The Supreme Being:至高の存在、the Absolute:絶対的なもの
人の中にある彼は、太陽の中にある彼と同じです。
 *人の中にある彼:Atman
  太陽の中にある彼:Brahman
(Sa yaschayam purushe yaschasavaditye sa ekah)
 *福間さんが訳された「ラマナ・マハルシとの対話 第1巻」56ページ参照
真我、または、至高の精神が、明らかになっていない、そして、活動していない間ずっと、相対的な二つはありません。例えば、主体と客体、つまり、drikdrisya
もし、心、それ自身の現れの究極の原因の中へ入る探求が続行されるならば、心は、Atman、または、Brahmanと違ったふうに呼ばれる実在のただの現れに過ぎないことを見いだされるでしょう。
心は、sukshma sarira、または、「微細な身体」と呼ばれています。そして、jiva は、個々の魂です。
jiva は、他と区別される際立った個性という成長の本質です。そして、その人特有の特徴は、jiva として見なされます。
思考、または、心は、その側面だと言われています。また、jiva それ自身を明らかにする手段の一つです。つまり、初期段階、または、植物のようにただ生きている個体の命であるという、そういう現れの側面。
 *植物のようにただ生きている個体の命:肉体を維持するためだけの命
この心は、決してそれ自身によってではなく、いくつかの心ではないもの、または、物質と、関連している、または、従っているとして、いつも見られています。
それ故に、心と物質は、共存します。

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Author:ookuwa
私は、英語がとても苦手なのですが、ラマナ・マハルシの教えをより深く理解するため、「Talks」の翻訳(直訳)をしています。
 * Talks直訳について
もし、転記などをされた方は、転記元(当ブログ)を明記してください(転記などをされた後、その方などが著作権を主張されますと困りますので)。
なお、「Talks」翻訳時に、日本ラマナ協会の故柳田前会長が開催した「神戸ラマナ講座」で配布された資料、柳田前会長が翻訳された本、福間巌さんが翻訳された本、shibaさんの「アルナーチャラの聖者」を参照しています。また、mixiで知り合った方からいろいろなアドバイスをいただきました。(感謝!)
*1994年日本ラマナ協会入会、2008年退会、愛知県

【Talksなどの修正・追記履歴】
2018.01.22 マハルシの年表
2016.03.13 Talksなどのまとめ
2014.12.22 マハルシの文献
2014.02.15 真我の探求方法



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