ラマナ・マハルシの教え
日本ラマナ協会前会長故柳田侃先生から教えていただいた「ラマナ・マハルシの教え」の理解をより深めるため、実践して感じたことや「TALKS WITH SRI RAMANA MAHARSHI ラマナ・マハルシとの対話」の直訳、感想などを記します!(日本ラマナ協会は一切関係ありません)
死の体験
121122_ウイングゆーやけ

アルナーチャラの聖者」にまたしても気になるお言葉が!

マハルシの年表」にも書きましたが、マハルシは、「死の体験」で、即座に真我にとけ込まれたのではなく、没入しただけで、その後の絶え間ない「真我への傾注」により真我にとけ込まれた。

まぁ、今となっては、その真偽を明らかにすることはできません。
しかし、「マハルシの教え」が、マハルシの実体験からきていることを考えると、僕は、そう思えてしかたないです。

「私」の生じる源にあり続けている「微細な流れ」、何もかもがここから生じ、ここに戻る。
「私は誰か?」と問い、この源を見つけ出し、そこを意識し続ける(傾注し続ける)。
「微細な流れ」に没入している時間をできるだけ長くし、真我が「私」をとけ込ませてくれるまで、感じ続ける。
「マハルシの教え」は、マハルシの実体験であり、誰もがその通りにすれば、そうなれる。
僕は、そう信じています。
 *なかなか実践し続けられませんが (;^_^A

「微細な流れ」を海のような川ではなく、海に流れ出た川と感じられるよう、努力し続けたいです。
(*^_^*)
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テーマ:自己探求 - ジャンル:心と身体

この記事に対するコメント
こちらこそ
Y.Aさん

こちらこそよろしくお願い致します!
(*^_^*)
【2012/12/06 16:47】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

今後もどうぞよろしくです。
ookuwaさんは、ラマナひとすじで実践なさっているので、僕は一目置いていますし、あまりチャチャを入れたくないという気持ちがあります。

ですので、意見の食い違いは色々あったのですが、ookuwaさんにこれ以上、アレコレ言いたくなかったのです。

いらぬ波風を立てたくはありませんしね。

僕は僕自身の課題に向かっていきます。

今後も、何か思うことがあれば、コメントすることがあるかもしれません。

どうぞよろしくです。
【2012/12/06 16:21】 URL | Y.A #- [ 編集]

お互い頑張りましょう!
パパジさんの本を「一読に価しない」とは思っていませんよぉ!
「パパジさんの段階が、マハルシと同じではないと思う」と言っているだけです。
「覚醒の炎」は、しっかり読んでいないので、よくわかりませんが、崎山さんの「真理のみ」は、とても良い本です!

「こだわり屋さん」?
えぇ、そうです。
「マハルシの教え」のみにこだわっています。
なので、このブログのタイトルは、「マハルシの教え」です。
こだわりがなければ、このようなブログを書きませんし、実践もしません。
たくさんのこだわりに翻弄されるのではなく、ただ一つのこだわりを持つことにより、それ以外のこだわりを手放す努力をし続けています。
それが、今の僕が選んだ生き方なので、変えるつもりはありません。

「平行線」?
僕は、そう思っていませんが、もし、Y.Aさんがそう思われたのであれば、それはそれでいいですよぉ。
僕は、交わりたいとか平行線でいたいとかの思いはまったくありません。
Y.Aさんに質問されたことに対し、僕の思っていること、感じていることをかなり時間をかけてコメントしているだけですから。

それぞれの段階において、必要なこと・ものは、与えられているそうです。
あとはそれに、気付くか、気付かないか。
何が正しく、何が誤りなのかは、自分の選択した道を真っ直ぐブレずに進み、袋小路に入ってループしたり、壁に当たって立ち止まらざるを得なくなったとき、わかると思います。
そこで気付いて修正して、また、真っ直ぐ進む。
それを何度も繰り返すことにより、より良い方向に進めるようになるんじゃないかと思います。
一つのことに集中する強い心がないと、なかなか前に進めません。
よそ見をすることなく、信ずる道を一生懸命頑張り続ける。
それが、とても大事なことだと思います。

僕は、20年くらい前にマハルシというこれ以上ない素晴らしい指導者に出会い、その教えを実践し続けることにしました。
以前、Mさんを勧めていただきましたが、僕には必要ありませんので、ご理解をお願い致します。

Y.Aさんに良い指導者が見つかりますように!
(⌒0⌒)/~~~
【2012/12/06 04:29】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

指導者を見つけることにします。
パパジの話は、「覚醒の炎」の「はじめに」の中に出てきます。

私は、一読に価する書物だと思っています。



ここ数日間、ookuwaさんとお話して、久しぶりで目覚めの道に目を向けることができました。
ookuwaさんとのやり取りの中で、僕自身のもやもやが整理できた部分があります。
ですので、ookuwaさんには感謝しています。



ただ、ookuwaさんも僕も思考で判断している部分があまりにも多く、どちらもかなりのこだわり屋さんですから、どうしても意見は平行線をたどってしまいますね。



でも、こうしたやりとりの中で、僕自身の問題点が自覚できたように思います。
つまらぬ頭で考えて、勝手な判断でおし進めても、それは見当違いになるなあ、と。
やはり、指導者が必要だなあと改めて思いました。



僕はMさんに指導してもらっていましたが、新たな指導者が必要だなあと感じます。
自分のつまらぬ頭で判断するのではなく、たしかな指導者を見つけて実践を積み重ねる必要があるなあ、と。

このやりとりは、そのことに気づく良い機会となりました。

色々言いましたが、本当にありがとうございます。
このブログは、ラマナを信奉する日本人にとってとても貴重です。
ありがとうございました。


【2012/12/06 04:04】 URL | Y.A #- [ 編集]

いま、ここ
「真我実現」、僕もときどき使いますが、実は、あまり好きな言葉じゃないんです。
真我は、実現するものではないからです。
「私」と真我を隔てている覆いを取り除くだけ(これが、とても難しいのですが。。。)なので、「実現」という言葉は適切ではないです。
実現するような真我は、マハルシの言われる真我ではないです。
まぁ、マハルシも同じようなことを言われていますがね。
(;^_^A

「いま、ここ」から感じられる「真我(源)」は、とても微細(かすか)です。
小さなこと、細かなことにこだわるようでたいへん申し訳ありませんが、言葉で表すことができないことを伝えようとしていますので、その用語(言葉)は、繊細な使い方が求められると思います。

パパジさんのことですが、僕より遥か先の方ですが、マハルシの段階まで到達しているようには思えません。
「あなたは到達したのだ」
僕もどこかでこの文を読みました。
崎山さんの「真理のみ」か、デーヴィッド・ゴッドマンの「覚醒の炎」?
マハルシが本当にそう言ったのでしょうかねぇ?
英語で、それともタミル語?
それを聞いたのは誰なんでしょう?
「到達」が、英語(タミル語)で何と書かれていたのかわかりませんが、この日本語訳が正しいと仮定すると、源に到達したのか、源に没入したのか、源にとけ込んだのか、どれなのかわかりません。
おそらく、源に到達しただけなんじゃないでしょうか?

Talksなどに、ときどき、マハルシを神格化したような表現や、マハルシが起こした奇跡を少し大げさに書いた文があります。
申し訳ないのですが、僕は、これらのことに関心があまりありません。

「ありのままに見る」
良いお言葉ですねぇ~
「意識して見るのではなく、見ることが起こる」
これもとても良いお言葉です。
体験を通して、少しずつ気付き、そして理解し、それを何度も何度も繰り返す。
大悟小悟を永遠に繰り返す。
そうしていれば、いつしか、少欲知足、あるがまんまの境地に至る。
その境地に至ったとき、「私」という思考の源を探り求めるんです。
それが、マハルシの教えです。

「いま、ここ」
今、この一瞬のみが実在。
どこかの講演会で聞いたことがあるお言葉です。

「あるのは、一息一息(ひといきひといき)のみ」

これは、真我から分離してしまった「私」の言葉ではないのでしょうか?
「いま、ここ」から分離し、真我に限りなく近づいたとき、そう感じるでしょうか?
想像して見て下さい。
きっと、新しい感覚が得られると思いますよぉ。
(’-’*) フフフ
【2012/12/05 19:44】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

修練・観照・今ここ
>何に対して、一心に取り組むのか?
>マハルシの教えとの違いは、それだけなんじゃないかって思います。

まったく同感です。

ただ、パパジの真我実現の経緯が気になっています。
彼は「誰が見るものなのかを見出しなさい」というラマナの教えを受け入れずに、神の姿を見ようと必死にクリシュナの名を唱えました。
その結果、「頑張ろうにも唱えることができない」状態になってしまいました。
それをラマナに告げた直後、ラマナの凝視によって真我実現しています。
ラマナは、パパジにハッキリと「あなたは到達したのだ」とおっしゃっています。

一種のジャパの修行になっていたのかもしれませんが、どちらにせよ、彼はラマナの教えに背いたにもかかわらず、真我実現しました。

ほかにも似た話はあって、ニサルガダッタ・マハラジに覚醒を認められたカナダ人は、それまで何度もマハラジに食って掛かって討論し、何度も追い出されています。

一体何が重要なのか??

これは私にとって最も大きなテーマです。

>内にもたくさんの欲があって、物理的な欲を手放しても、またあらたな欲を握りしめたりします。

Mさんは、欲望をなくしたいという僕の言葉に対して、「なくすんじゃない。ありのままに見るんだ」と言ってました。(この”見る”は、意識的に見ることじゃなく、”見ることが起こる”という状態を指すはずです。いわゆる観照ってヤツですね。)

>永遠でない多様なこと・ものに対し「一心に取り組む」のもいいのですが、できれば、永遠である一つに対し「一心に取り組む」と、迷いやブレがないまま前に進むことができると思います!

やはりMさんの話になりますが、今ここにある現実は実在だと。一瞬先の未来と一瞬後の過去は、マーヤだと。
ラマナは「現在さえも想像に過ぎない」とおっしゃっていますが、今ここはとてつもないリアリティを持っていることだけは確かです。
【2012/12/05 15:26】 URL | Y.A #- [ 編集]

一心に取り組む
いえいえ、ほんの少しでも、お役に立てたのであれば、とてもうれしいです。

「一心に取り組む」
何に対して、一心に取り組むのか?
マハルシの教えとの違いは、それだけなんじゃないかって思います。

源に対し、、一心に取り組むと、最初は、体験を通していろいろなこと・ものの理解が少しずつ深まってくる。
腹にすわり始める。
ここは、一緒です。
で、この先が違うんじゃないかって。

未体験ゾーンなので、言葉でうまく表せれませんが、突然、何もかもが変わる。
んー、、、いやぁ~、違うなぁ。。。
ちょうど良い言葉が見つかりませんが、頭で理解していることが変わるとか、気付くとか、そういう段階的な現象じゃなくて、根本的なところが根こそぎ入れ替わる?みたいな。
そう、マハルシの「死の体験」直後のように。

そんな予感がしています。
(;^_^A

外を向き続けたことにより得られた たくさんの欲。
内に向きを変え、内を向き続けながら、それらを少しずつ手放していく。
でも、内にもたくさんの欲があって、物理的な欲を手放しても、またあらたな欲を握りしめたりします。
永遠でない多様なこと・ものに対し「一心に取り組む」のもいいのですが、できれば、永遠である一つに対し「一心に取り組む」と、迷いやブレがないまま前に進むことができると思います!
迷いがないと、楽ですよ!
(*^_^*)
【2012/12/05 03:58】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

色々とありがとうございました。
菅原信隆さんの言葉を読ませていただきました。
とても素晴らしい方ですね。

宮崎奕保禅師の言葉も、とてもいいですね。

禅の境地とラマナの境地は違うものだとしても、ラマナの日常生活やちょっとした仕事ぶりを読んでみると、禅の方とよく似ているなあと思います。

菅原信隆さんのおっしゃるように、壊されて、壊されて、自然と一致する形になれば幸せやろうなあ。

ラマナ・マハルシの教えであれ禅の教えであれ、一心に取り組むことが大切ですね。

色々とありがとうございました。

【2012/12/05 03:06】 URL | Y.A #- [ 編集]


「真我(絶対なる神)」を否定した教えを正しく実践した場合、「真我」にたどり着くことは、論理的に困難だと思います。
通常、たどり着けるのは、「無(永遠の空白)」か、「光、または、闇」なんじゃないかと。
「身心脱落」=「真我にとけ込む」ではないみたいですからねぇ。
まぁ、ただ、宮崎奕保禅師(http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-72.html)や、菅原信隆さん(http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-111.html)のような素晴らしい覚者がいますので、良い教えであることは間違いないです!

源にとけ込むと、「あるがまま」になるのか?
とけ込んだことがないので、わかりませんが、菅原さんたちが言われる「あるがまま」ではないと思います。
マハルシは、「あるがままになる」とは言っていませんからねぇ。
福間さんの訳書のタイトル「あるがまま」ですが、これは、マハルシの言葉ではないですし。
「すっからかんになって、流れのままに」、まぁ、これを「あるがまま」ととらえますと、禅を究めればたどり着けると思います。

「坐禅というのは 息と一つになる 欲の起こる すきがない」
「すべてがみな禅だ 禅というたら 何かことさらにあるように思っておる そうではなくて そのものと一つになっていくことが禅だから 歩いたら歩いた禅 しゃべったらしゃべったで しゃべることが禅だ スリッパを脱ぐのも 坐禅の 姿や」
http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-75.html

頑張ってくださいね!
(*^_^*)
【2012/12/04 21:12】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

ご感想などありがとうございます。
私のような面倒くさいヤツにご意見くださり、本当にありがとうございます。

仏教というか禅については、私自身しっかり整理しておく必要があるので、Mさんが絶賛する井上義衍老師のご境地とラマナのご境地を、ご本人の言った言葉で比較してみました。

するとですね、禅とラマナの共通点と相違点がハッキリしたんですよ!!

いやー、やっぱりきちんと見ていくことの大切さがよく分かりました。

言葉を抜粋するとやたら長くなるので、結論を書いていきます。

(それでも長文ですが。。)



禅の境地とは、認識以前から存在している”事実”に目覚めることです。

事実とは、このカラダであり声であり、雨音であり風であり、鳥であり森であり、消しゴムでありバラの香りであり、、、つまりは、誰もが知覚しているあらゆる事物です。

その事実にピッタリひとつになることを、「なり切る」って言ったりします。

本当にピタリとひとつになると、認識が落ちます。

一念生じる以前の状態です。

事実そのまんま。

これが空の境地です。

道元の言う身心脱落です。

ここから認識の世界に戻ったとき、本当の真相に気づきます。

今までは、人間の考えや想念で、事実そのものに色付けしていたことが、ハッキリ分かります。

でも、事実は考え以前に存在していて、考えによって変えられるものではないことが、ハッキリします。

この気づきによって、人は物事に余計な色付けをしないようになります。

つまり、アレコレと考え悩むことがなくなります。

これが、煩悩からの解放です。

大安心の境地ですね。

これが禅ですわ。

だから、ookuwaさんのおっしゃるように、多元なんでしょうね。事実は多様性に満ちていますからね。



では、ラマナの境地と比べるとどうか??

認識以前に入る。

これはまったく一緒です。

でも、ここからが違います。

認識以前だけで終われば、単なる空であり、暗闇です。

世界が落ちた状態です。

でも、ラマナは認識主体の核心にまで肉薄します。

私の中心です。

私の源です。

認識主体の中心にまで入ると、何が起こるか??

「永遠に存在する栄光ある存在意識」が、ひとりでに姿を現すのです。

純粋な「私ー私ー私・・・」が姿を現すのです。

この「私」は、無限に輝きます。

これが、ラマナのご境地です。(ookuwaさんにとっては当たり前のことですね)



禅でも、認識以前に入っちゃうから、ほとんど「私」(エゴ)は落ちてしまいます。

でも、そのもっと奥があるんですね~~!!

おそらく、それは事実以前なんでしょうね。(ここはハッキリしないんですが、「事実そのものとひとつになる」みたいな禅的なことをおっしゃっていない様子なので、間違いないと思います)

だから、ラマナのご境地はありのままの肉体(事実)以前なんだと思います。

だから、霊的なのでしょう。

でも、禅ではありのままの肉体の活動そのものに、ピタッと一致するところまでです。

活動体そのものになって、生きるままに生き、死ぬままに死ぬ。

これが禅の融通無碍の境地です。

ラマナは、もちろんこの境地をも包括しています。

とっても自由ですもんね!

あの天真爛漫な笑顔!

「南インドの瞑想」の冒頭写真とか見ると、こちらまでニコヤカになります。

流れのままに生きていらっしゃったことがよく分かります。



でも、ラマナにはそれ以上の荘厳が、神々しい輝きがある!!

これは、禅にはありません。

少なくとも、井上義衍老師にはありません。



この輝きは、無限の「私ー私ー私・・・」に目覚めた人にしかないものなんでしょうね。

アルナーチャラの聖なる輝きですね。



この荘厳に魅せられた人は、禅では満足できないんだと思います。

でも、これがいいのかよくないのか。。。

単なるラマナ信奉者で終わってしまいかねない。。。



どっちにせよ、やっぱりラマナの境地は群を抜いて素晴らしいです。

でも、禅の境地でも人は十分に幸福に生きられると思います。

私が言っていた「すっからかんになりたい」という願望は、きっと禅で叶うと思います。

でも、ookuwaさんがおっしゃるとおり、潜在的傾向(ヴァーサナー)は無くならないでしょうけど。。

ラマナのご境地に近づきたいなら、こうした願望の源を探究すべきですね。



まあ、そんなわけで(笑)、禅も悪くないなあと思ったり。

今後どうするのか、まだ結論は出ていません。

でも、かなりスッキリしました!

ookuwaさんの仏教へのご意見のおかげです。

ありがとうございました。



【2012/12/04 13:04】 URL | Y.A #- [ 編集]

一元と多元
そうですねぇ、、、
マハルシは、「一元」です。
釈尊と、釈尊の教えを元に創作したいろいろな仏教は「多元」です。
多元どころか、八百万?だったりします。
あと、目指すゴールが異なっています。
釈尊の教えは、マハルシの言われる「真我」がゴールになっていません。
なので、真逆とかじゃないと思います。
出発点じゃなく、ゴールが違っているんです。
(^^;)

あぁ、「真我」には、いろいろな真我があります。
創作されたいろいろな仏教で、もし「真我」という用語が出てきたとしても、それは、マハルシの言われる「真我」ではないと思います。

マハルシは、ご存じのようにすべてを手放してはいません。
アルナーチャラ(真我)のみを握りしめています。

「すべてを手放す心境」ですか。。。
「心境」だけなら、今すぐにでもできそうですけど。。。
本当に手放すことは、かなり難しいです。
マハルシの教えでは、潜在的傾向(生まれたときに持たされた欲)は、自分の力ではなくすことができないと言われています。

なぜ、キレイになりたいのでしょうか?
なぜ、すっからかんのゼロになりたいのでしょうか?
その欲がわき上がる「源」を探り求めてみると、少し変化があると思いますよぉ。

僕たちは、いつかは粗雑な身体から離れなければならないので、そういう意味で「ゼロ」なんですがねぇ~
(*^_^*)
【2012/12/03 23:42】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

さすがですね。
さすがはookuwaさん。

とても勉強なさっているのがよく分かります。

そして、主張されることにブレがない。

ラマナに弟子がいないことは、以前から一貫しておっしゃっていましたよね。

私は言葉の用い方がかなりいい加減なので、色々問題があるのはよく分かります。

とくに、没入と溶け込むは、もうまったく別ですよね。

不勉強と体験不足をされけ出してしまいました(苦笑)




Mさんの下での勉強と実践は、今はやっていません。

Mさんの境地はとんでもなくスゴイんですが、それでもラマナの全体像はとらえ切れてないなと感じるからです。

ハッキリしているのは、Mさんはまだ、人生になんらかの価値を感じているということ。

なにもかもを手放す境地というのは、本当に困難なのだなあと思います。

それで、ずっと修行みたいなことから遠ざかっていました。

ラマナ関連の書籍を見たのも、かなり久しぶりでした。

ookuwaさんは、ずっと実践されているようで、素晴らしいです。




仏教とラマナの違いについての記事も読みました。

このあたりは、僕の中ではまだ未消化ですが、おおざっぱに言うと真逆から攻めているんだろうなあ、という感想です。

在るに目を向けるのか、無いに目を向けるのか。
 
絶対から出発するか、相対から出発するか。

お釈迦様は、当時のインド伝統の思想からすると異端とされていたようで、だからこそ仏教という宗教集団になったんでしょうね。

(イエスが伝統的ユダヤの戒律を否定したのと同じですね。)

でも、個人的には本質的な違いはないと思っています。

ただ、ラマナの境地はあまりにも完璧で、歴史上でここまでの人はいないんじゃないかとも感じています。

まあ、最終的にはラマナという特定イメージから離れないといけないようですが、特別な方ですね。




僕は、ラマナを知る前から「自分がなくなる」「すべてを手放す」といったことへの欲求があって、そのおかげでラマナに触れることが出来たようなもんなんです。

自分というものが丸っきりゼロになることほど、美しいことはないなあ、って思うんですよ。

だから、ookuwaさんのようなラマナ一筋の人とはちょっと違うタイプなのかもしれません。

僕はね、ラマナほどすべてを手放した人はいないよなあ、って思うんです。

もうね、とんでもなくピュアな方だと。

それが、ラマナの瞳と表情にハッキリと表れている。

だから、ラマナに惹きつけられるんですよ。




すべてを手放す心境になれたら、もういつ死んでもいいと思っています。

僕の人生なんて、お笑いみたいなもんですからね。

僕という存在じたい、在っても無くても変わらないなあって思うんです。

この世も、そんな感じで受け止めてます。

価値があるとかないとか、そんなのどっちも同じことですから。

とにかく、キレイになりたいです。

すっからかんのゼロになりたい。

それが僕の欲求です。




手放したら、あとの人生はお任せですね。

流れのままに、ってやつです。

そんなふうになれたら、本当にいいよなあ。。
【2012/12/03 15:20】 URL | Y.A #- [ 編集]

こちらこそありがとうございます!
Y.Aさんでしたかぁ!
失礼しました。
m(_ _)m

あらためて、お久しぶりです!
相変わらずいろいろと忙しくて、以前いただいたメアドを見ればすぐにわかったのですが、端折ってしまいました。。。
m(_ _)m

たくさん書いていただき、ありがとうございました!
Y.Aさん、確かMさんのところに行かれたのですよねぇ?
修行、順調ですか?
(*^_^*)

バーナデット・ロバーツの体験で、特に気に入っているところは、確か、「他の人々を見たときに、他人というものがない。一つであるものが前面にあり、それ以外は、その背面にある」みたいなところです。
主軸が、「見られるもの」から「見るもの」に変わったんだなぁ って思いました。
あと、そこに至る過程がリアルで、とても共感が持てました。
仏教の「無」とか、「虚無」ってのは、絶対的な「一つであるもの」を否定している釈尊ならではの表現だと思っています。
以前、「マハルシの教え」と「釈尊の教え」は、同じようなものだと思っていましたが、まったく異なるものであることがわかりました。
http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-144.html
http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-145.html

マハルシの二度目の「死の体験」についてですが、「真っ黒な幕が目の前に下ろされ、完全に世界から遮断されたような状態で、真我を意識していた」と言うことなので、「とけ込む」=「真っ暗」ではないと思います。
「意識していた真我」は、真っ黒ではないでしょうし、世界から遮断されてもいないはずです。
遮断されるような真我であれば、それは、マハルシの言う「真我」ではありません。
今、僕が感じている「源」は、もちろん「無」とか「真っ黒」ではないです。
あと、喪失感みたいなものもないです。
「無」は、ここに至る過程で体験したことがあります。
光を見たり、何もないと感じたりすることを、マハルシは、「マノラヤ(心がハートの中でとけること)」と言われ、「ここで立ち止まらず、さらに『私』という思考が生じる源を探り続けなさい」と言われています。
とけ込まなければならないのは、ハートではなく、ハートの中にある源です。
http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-3.html

ブラントンのことですが、マハルシに弟子はいませんし、「認める」ということもしていなかったのではないでしょうか?
また、マハルシは、そのようなことに関心を示さなかったと思いますよぉ。
(*^_^*)

あぁ、あと、パパジさんも弟子ではないです。
パパジさんは、一時期アシュラムにいたマハルシの信奉者の一人に過ぎません。

僕は、真我にとけ込んだことがないので何とも言えませんが、言葉で表すことができないと感じていますので、Y.Aさんの言われる通りだと思います。

生と死、光と闇、それらは、真我から生じると感じています。
生と死のように対象のあるものは、狭義では真我でなく、広義では、真我。

至福感というのは、真我の性質みたいなもので、真我そのものではないみたいです。
Sat(あり続けている)の輝きがChit(意識)であり、その性質(本性)がAnanda(至福)。
http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-60.html

マハルシは、質問者の段階に応じて話しをされていますので、話された内容を部分的に取り出して、「マハルシがこう言った」みたいなとらえ方をすると、ちょっと違ってきたりします。
気を付けてくださいねぇ~
(;^_^A

「悟る」という言葉の意味は、いろいろありますので、この言葉を使うのは控えさせていただきますが、マハルシは最初の「死の体験」で、真我を頭で理解した(知った)のではなく、「私は誰か?」と思い、「私」の源を探り求めたところ、源(真我)に没入し、真我に魅了され続けた。
真我の中に完全に入った(没入した)けれど、真我と「私」の境界は存在していて(とけ込んでいない)、真我から出てきた。
2年数カ月の間に、真我に魅了され続けている状態で普通に会話ができるようになった。
二度目の「死の体験」でとけ込みかかったのかもしれませんが、戻ってきた。
YOUTUBEのマハルシの動画を見れば一目瞭然なのですが、いつでも真我に入り込むことができたのは間違いないです。
いつ、真我にとけ込まれたのか?
それは、今となってはわかりませんが、マハルシの段階は、少なくとも僕より、はるか先ってことは間違いないです。
(;^□^)あはは…

真我に没入し続けられるようになると、粗雑な身体を意識することができなくなると感じています。
「考える」とか「自覚」みたいなものはこの状態ではないと思います。
「真我」には、いろいろな「真我」があります(いろいろな理解・とらえ方があります)。
Y.Aさんの「真我」には、「上」とかがあるかもしれませんが、マハルシの言われる「真我」には、「上」とかないですし、「真我の自覚」というのもないです。
あと、「没入」と「とけ込む」は、同じようにとらえられるかもしれませんが、かなり大きな違いがあるように感じています。

「マハルシの教え」は、マハルシが真我に没入した方法をそのまま伝えているだけです。
なので、Y.Aさんの言われるとおり、「マハルシの教え」は、真我そのものではありません。
真我に没入するための方法を述べているに過ぎません。
マハルシは、揺らぎがなく、その教えもブレがないです。
マハルシの教えを実践し続けていれば、いつか、真我にとけ込ませてもらえる。
僕は、そう信じています!
(*^_^*)

いろいろな聖者、覚者がいて、いろいろな「真我」があり、いろいろな「悟り」があります。
多くの情報を簡単に入手できるということは、良いことでもあり、良くないことでもあります。
何が真で、何が偽なのかわかりません。
何が遠回りで、何が近道なのかもわかりません。
とりあえず、いろいろと吟味した結果、自分が信じられる「教え」を見つけたならば、袋小路に入り込んで身動きとれなくなるまで実践するしかないようです。

まぁ、今生で真我にとけ込めるとは思っていません。
焦らず、コツコツ実践し続ける、そうすれば、いつか みたいなカンジです。

Y.Aさん、頑張りましょうね!
(*^_^*)
【2012/12/02 23:50】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

お返事ありがとうございます。
バラガンあらためY.Aです。

あのー、すいません。

やっぱり前のコメントを修正します。

ずっと以前から思っていた私の想像の方が、きっと正しいと思います。

以下、めちゃくちゃ長文ですが、理由を言います。





バーナデット・ロバーツの体験って、とても魅力的ですよね。

圧倒的な至福とか歓喜の体験ってよく聞きますが、この体験よりもバーナデットの怖ろしい虚無の体験にシンパシーを感じます。

十字架の聖ヨハネの、「神の前にあまりに無力であるため、私は無き者とされる」「暗くなる」「無、無、無」といったくだりにも共感します。

なんというのか、私の意識の深いところで引き込まれるんです。

自分が完全に失われるような、とても崇高な感じがして。。



ラマナは、「真我とは幸福である」とか言いますが、これはとらえ方が難しい。



弟子のポール・ブラントンの境地をラマナは認めていましたが、ポールの境地はあきらかに、至福とか歓喜とか生命とか意識といった言葉で表現されるもの。
(ポールの「秘められたインド」から受ける私の感想です)

この境地は、バーナデットや聖ヨハネの境地に及ばないと思います。自我の崩壊の徹底ぶりから見て。

それなのに、ラマナはなぜ、ポールの境地を認めたのか?

そして、なぜ「幸福」を真我と言ったのか?

ここは非常に高度でデリケートな部分であり、ラマナの悟りの核心部分であると思うのです。




私が思うには、本当は真我とはあらゆる認識の彼方にあって、「これだ!」とは言えない。

ニサルガダッタ・マハラジは、「真我はあらゆる体験を超えている」と言っています。

でも真我からちょこっとだけ出て、真我を体験したとき、圧倒的な至福や虚無の体験となる。

つまり、虚無と至福には、何ら違いがない。

生であって死。

光であって闇。

実在であってマーヤ。

ラマナははっきりと、「マーヤとは、実在のことです。」と言ってますよね。(TALKSの中にあったはずです)

その不二一元の最終的な境地から見たとき、ポールの至福の生命世界も真我の悟りであると言えるんだろうな、と。

暗闇とかのより深い体験がなくても、真我に触れていることに変わりはない、と。




私のお世話になった覚者は、「暗闇」を真我だと言います。

それはあらゆる世界を超えているそうです。

つまり、(世界の)認識を超えている。意識を超えている。

認識され得ない。

だから、暗闇。



でも、純粋な真我は、その暗闇をも超えているんだろうな、というのが私の想像です。

ラマナやバーナデットや聖ヨハネが体験された「真っ黒」「闇」「虚無」は、かろうじて、かすかに、認識の名残があります。

その最後の認識の名残、意識の名残、気づきの名残、自我の名残を超えたところに、おそらく、本当の純粋な真我があるんだろうな、と。

それを、ラマナは「私」と呼んだのだろうな、と。

その「私」を、おそらくラマナは一度目の死の体験のとき、ハッキリと悟ったと思うのです。




だから、パパジは「そこに確立されるために何年もかかったわけではない」

「そこでヴェンカタラーマン少年は消え去り、真我だけが残ったのだ」

と断言しています。

あまりにも迷いなく語っているので、パパジの境地ならば明瞭に分かるのでしょう。




しかし、本当に真我に溶け込むのに時間はかからなかったのか?

私の現在の答えはこうです。

「ラマナにとって、一度目の死の体験の後のことは、すべて、真我の上で起こったことに過ぎない」

「ラマナという固有の意識、個性を持った魂は、長い時間をかけて徐々に、真我へと溶けていった」

「しかし、それはすべて、”私”の中で起こったことに過ぎない、という明瞭な自覚がラマナにはあった」

「そうしたすべてを、ラマナはハッキリと自覚していた」

「おそらく、一度目の死の体験の直後から」

「しかしそれは、自覚なき自覚である」

「だから、自覚をもって語られたときには、幸福とか意識とか存在と言われる」

「しかし、純粋な悟りは、そこにはない」

「ラマナの自覚なき自覚は、沈黙によってのみ語られる」

「それは、衣服を捨てて坐った少年のときから、ずっと語られていたのだ」




垣間見たとか、悟ったとか、悟りのプロセスにあるとか、まだ自我が残っているとか、溶け込んだとか、まだとか、それらはすべて、真我の上でのことに過ぎない、ということです。

それを、ラマナは16歳のときに完全に知ってしまったんだと思うのです。

「死の体験のとき、悟った」というラマナは、どこにもいない、ということです。

私たちは、真我の上で起こった出来事を見ているに過ぎない、ということです。

悟った個性的存在のラマナもまた、私たちと同じなのです。

だから、ラマナの言葉だけでは理解できないのです。

つまり、悟ったラマナなんて、どこにもいなかったのです。

ただ真我のみが光輝いていた。

ただアルナーチャラのみが!!

それは、16歳のときから何も変わらなかった。

でも、固有の個性をもったラマナは、その後、少しずつ溶け込んでいったのです。




パパジと弟子の次の話が、それを暗示しています。

ーーラマナ・マハルシのようなジーヴァン・ムクタ(生前解脱者)は、早くにカルマを使い果たし、それから解脱したのでしょう?

「いいや、それはそのように働くのではない」

「カルマは自由とともに終わるのではない」

「自由がカルマを終焉させるのだ」

「解脱が起こるとき、大いなる炎が過去のカルマとその未来の業果を焼き尽くすのだ」



つまり、ラマナは16歳のときに完全に悟った。

その後、個性が徐々に焼き尽くされていったということです。

これはしかし、私の想像の域を超えません。

パパジも、こうしたことを詳細に語っているわけではありません。(私が知る範囲では)

こうした高度でデリケートな核心部分に触れている覚者が、ほぼ皆無だから、想像するほかないのです。




でもね、ookuwaさん。

少年ラマナが路上で沈黙して坐っていたとき、

「ラマナはまだ、悟りのプロセスにある不完全な境地だった」

って思います??

うわべはそうだったかもしれないけど、その個性的存在の奥に、あまりにもハッキリした自覚があったとは思いませんか??

溶け込むプロセスは、ハッキリした真我の自覚の中で徐々に起こったと見る方が自然じゃないかと思うんですよ。

自覚って、動かないでしょ??

動くものは皆、個性的存在でしょ??

少年ラマナの「神が現れるのを望んで空を見ていた」

「力やエネルギーの流れに夢中だった」

「地下室に逃げ込んで、虫や小動物に足を食われるのも分からず、没入していた」

なんていうラマナは、全部真我じゃないですよ。

それは全部、真我の上で起こった出来事ですよ。

ラマナの教えは、真我に在ることを終生続けて真我に溶け込んでいった、個性的ラマナの教えに過ぎないんじゃないでしょうか?

それはookuwaさんのおっしゃるとおり、ラマナの体験からのもの。

だから、その教えは真我そのものじゃない。

真我の自覚は、ラマナという個性的存在を完全に超越したところにあって、それをラマナは一発で自覚した。

だからその後まったく、迷った節がありません。

パパジもニサルガダッタ・マハラジも、私の知る例の覚者も、みんな悟りを垣間見たあとで迷っています。

悟り体験のあとでしばらく迷い、その後、迷いのない境地が確立しています。

しかし、ラマナはそうじゃなかった。

16歳のときから、何の迷いもありません。

これは、他の覚者とまったく違うラマナだけの特徴です。

(でもフーマンは、ラマナに近いかもしれない)

ですから、私は16歳のときに完全に悟っていたと思うのです。




そして、ラマナの教えをいかに忠実に実践しようとも、ラマナの自覚に追いつけない理由も、これでハッキリと分かります。

ラマナのお悟りは、ラマナの体験を超えています。

よって、どんな体験も、どんな実践も、ラマナのお悟りを再現できないのです。

悟りとは、おそらく、悟りからしか生まれないのです。

真我から湧き上がる不思議な力。衝動。声。

それ以外に、ラマナのお悟りを再現できるものはないと思うのです。




ですから、私たちはどうすることもできません。

もはや、なす術がないのです。

万事、お手上げです。

ですから、何をやってもどう頑張っても無理だと知りながら、努力するほかないのです。

努力の無意味さを、どうすることも出来ないということを、骨の髄までイヤというほど知り尽くすまで。

こんな私の文章は、しょせん、頭の中の上っ面な考えです。

その上っ面な考えを、骨の髄まで思い知る全身全霊の「どうしようもねぇよ!!」に深めていけるのか?

おそらく、それがすべてだと思います。

だから、もがくしかないんですよね。



こんな文章を読んでいただき、ありがとうございました。

ookuwaさんは、とても貴重な方です。

本当に感謝します。

Y.A
【2012/12/02 20:05】 URL | バラガンあらためY.A #- [ 編集]

Re: 久しぶりにコメントします。
バラガンさん、コメントありがとうございます!

ひょっとして「みなみのそら」さん?
違っていたら、ごめんなさいね。
(;^_^A

僕も最初の「死の体験」でとけ込まれたと思っていましたが、日本語文献を何度も読んでいるうちに「違う」と思うようになりました。
日本語文献の内容が正しいとは限りませんが、最初の「死の体験」で真我に没入し、魅了され続け、ティルバンナーマライの寺院や神殿に滞在した二年数ヶ月後に、井戸(真我)から引き上げれた(ニルヴィカルパ)。
二度目の「死の体験」で、一瞬とけ込まれた(サハジャ)が、また、引き上げられた?
没入にもいろいろあって、マハルシの没入は、とけ込む直前の没入で、いつでもとけ込めるが、あえてそうしていない?
とけ込んでしまうと粗雑な身体を維持できなくなる?
まぁ、とけ込んだことがないので、まったくわかりませんが、今のところ、そんなカンジで理解しています。

バーナデット・ロバーツの体験は、かなり酷似していると思います。
同じかどうかはわかりませんが、彼女の体験談は、とても魅力的です!

バラガンさんのコメント、とても共感できます。
また、いろいろと教えてくださいねぇ~
m(_ _)m
【2012/11/30 19:58】 URL | ookuwa #cJKlNMNY [ 編集]

久しぶりにコメントします。
約2年ぶり?の投稿です。

「アルナーチャラの聖者」の該当箇所を読みました。
たしかに、ookuwaさんのおっしゃるように読み取れますね。

私もずっと、ラマナは16歳の時の死の体験直後から真我に溶け込んだと思っていました。
でも、私が昔お世話になった覚者は、一度目の死の体験では完全に終わっていない、と言っていて、ずっと気になっていました。

その後、ラマナは二度目の死の体験で実際に肉体上の死(瀕死の状態)を体験しますが、この時に悟りのプロセスが終了したのではないか?とその覚者は言っていました。

一度目の死の体験のあと、ラマナは真我や魂やエネルギーの流れに夢中になっていった、とおっしゃっています。(「沈黙の聖者 ラマナ・マハリシ~その生涯と教え~」より)

しかし二度目の死の体験では、「それはまるで、真っ黒な幕が目の前に下ろされ、完全に世界から遮断されたようなものだった。しかし・・・・終始真我を意識していた」(同書)という状態。

私は、これはバーナデット・ロバーツの体験によく似ているなあ、という印象を持ちます。
例のお世話になった覚者も、「暗闇」と呼ぶ体験をしています。
彼の話では、ここに長くとどまると死んでしまうそうです。
あらゆる欲求が失われてしまうそうです。

この体験を経て、サハジャ・サマーディに達するのかもしれません。

ookuwaさんのおっしゃるとおり、ラマナの真我探究の教えはラマナ自身の実体験から来ているのでしょうね。

でも、霊的な力が強烈に働いていたラマナのような状態は、真似しようがありません(笑)

ラマナと同じ状態は無理でも、ラマナの指導で悟った方はいらっしゃいますから、強い意志や運命的な導きのある方は真我を自覚されるのでしょう。

しかし、かなりの厳しい道ですね(笑)











【2012/11/30 13:11】 URL | バラガン #- [ 編集]


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私は、英語がとても苦手なのですが、ラマナ・マハルシの教えをより深く理解するため、「Talks」の翻訳(直訳)をしています。
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もし、転記などをされた方は、転記元(当ブログ)を明記してください(転記などをされた後、その方などが著作権を主張されますと困りますので)。
なお、「Talks」翻訳時に、日本ラマナ協会の故柳田前会長が開催した「神戸ラマナ講座」で配布された資料、柳田前会長が翻訳された本、福間巌さんが翻訳された本、shibaさんの「アルナーチャラの聖者」を参照しています。また、mixiで知り合った方からいろいろなアドバイスをいただきました。(感謝!)
*1994年日本ラマナ協会入会、2008年退会、愛知県

【Talksなどの修正・追記履歴】
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