ラマナ・マハルシの教え
日本ラマナ協会前会長故柳田侃先生から教えていただいた「ラマナ・マハルシの教え」の理解をより深めるため、実践して感じたことや「TALKS WITH SRI RAMANA MAHARSHI ラマナ・マハルシとの対話」の直訳、感想などを記します!(日本ラマナ協会は一切関係ありません)
Talk 57 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 57 ラマナ・マハルシとの対話>
*2014年3月17日部分訳開始、2014年5月25部分訳終了

***<前略>***

【マハルシ】
一部の人たちは、jnanaに異なる段階があると考えます。
 *GROSSARY:jnana:knowledge:知識
真我は、承知の上で、または、知らないで、nitya aparoksha、すなわち、常に実現されている です。
 *GROSSARY:nitya:いつでも、始まりも終わりもなく続く永遠の
 *GROSSARY:aparoksha:直接、直接の
Sravana、彼らは、従って、aparoksha jnana(直接的に経験した)であって、paroksha jnana(間接的な知識)でないべきと論じます。
 *GROSSARY:sravana:導師から真実を聞くこと
 *GROSSARY:paroksha:うわさ、または、間接的な
 *ウィキペディア(ヒンズー教の経典)
   paroksha-jnana:本から得た知識、噂など
   Aparoksha-Jnana:直接的な経験から得た知識、自ら発見した知識
しかし、jnanaは、結果的に、duhkha nivriti(悲惨さの喪失)をもたらすのですが、sravanaだけでは、それをもたらしません。
従って、彼らは、たとえaparokshaでも、それは、揺るぎないものではないと言います。vasanasから生じることが、その弱々しい存在(不変でない)の原因です。vasanasが取り除かれたとき、jnanaは、揺るぎなくなり、実を結びます。
 *GROSSARY:vasana:現世の心の習慣。潜在的な傾向、または、印象
他の人びとは、sravanaは、paroksha jnanaにすぎないと言います。
manana(熟考)によって、それは、断続的にaparokshaになります。
 *GROSSARY:manana:聞いたことがあることの熟考
その継続に対する障害物は、vasanasです。それらは、manana後、活力を強化されて生じます。
それらは、抑制されなければなりません。
そのような用心は、「私は、身体ではない」ということを思い出し、manana(熟考)の過程を経て持たれたaparoksha anubhava(直接体験)に固執することにあります。
そのような実践は、nididhyasanaと呼ばれ、vasanasを根こそぎにします。
 *GROSSARY:nididhyasana:ヴェーダンタ哲学の実現の3つの段階の最後。そして、絶え間ない熟考
それから、sahaja状態をわかり始めます。
 *GROSSARY:sahaja:自然の、人の自然な状態
それが、確かな、jnanaです。
mananaaparokshaは、dukha nivritti(悲惨さの喪失)をもたらすことができず、vasanasjnanaを定期的に打ち負かすため、moksha、すなわち、束縛からの解放に達することができません。
 *GROSSARY:moksha:精神的な自由
従って、それは、adridha(弱々しい)です。そして、vasanasが、nididhyasana(one-pointedness)によって根こそぎになった後、堅固になります。
 *one-pointedness:うまく訳せません。。。

***<後略>***

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Talk 54 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 54 ラマナ・マハルシとの対話>
*2014年3月8日部分訳開始、2014年3月12日部分訳終了

***<前略>***

【マハルシ】
誰でも皆、「私はある」を知っています。
「私」が身体であるという混乱があります。
なぜなら、「私」が、絶対的なものから生じ、buddhi(知性)を引き起こします。
buddhiの中で、「私」は、身体の大きさと姿を見ます。
na medhayaは、Brahmanは、buddhiによって理解されることはできないということを意味しています。
 *GROSSARY:Brahman:至高の存在、絶対的なもの
Brahmanaham(「私-私」)→buddhi(知性)
どのようにして、そのようなbuddhiが、ahamを越えて、Brahmanを発見することができるのでしょうか?
それは、不可能です。
とにかく、身体である「私」という誤った概念を、乗り越えなさい。
誰に考えが生じるのか発見しなさい。
もし、現在の「私」という状態が、突然消滅するのであれば、発見は、完了です。
一面に残るものが、純粋な真我です。
深い眠りと目覚めた状態を比較しなさい。
多様性と身体は、ただ、後者の中でのみ見いだされます。
前者の中では、真我は、身体、または、世界の知覚なしに残ります。
そこでは、幸福が支配します。
Sruti vakyaAham Brahmasmi」は、心の振る舞い方ではなく、状態を物語ります。
 *GROSSARY:sruti:scripture:聖典
 *GROSSARY:Aham Brahmasmi:私は、Brahmanである
人は、mantraを繰り返して言うことを続けることによって、Brahmanになることはできません。
それは、Brahmanが、どこかよそにあるのではないことを意味します。
それは、あなたの真我です。
その真我を見つけなさい。Brahmanは、見いだされます。
いくらかのはるかかなたの所にあったかのようにBrahmanに達することを試みてはいけません。

***<中略>***

【質問者】
grihasta(世帯主)は、どのようにして、moksha(解放)の計画の中でやっていくのでしょうか?
 *GROSSARY:moksha:spiritual freedom:精神的な自由

【マハルシ】
あなたは、なぜ、あなたが、grihastaと考えるのでしょうか?
もし、あなたが、sanyasiとして出て行けば、同様の考え(あなたは、sanyasiであるということ)が、あなたの心を悩ますでしょう。
 *GROSSARY:sannyasi:苦行者、人生の第四段階に属する人
 *ウィキペディア:四住期
   1.学生期:brahmacarya
   2.家住期:garhasthya
   3.林棲期:vanaprastha
   4.遊行期:samnyasa
あなたは、世帯の中で続けようと、それを放棄して森林に行こうと、あなたの心は、あなたの心を悩まします。
自我が、考えの源です。
それは、身体と世界を創造し、あなたが、grihastaであるという考えをあなたに作り出します。
もし、あなたが世界を放棄すれば、それは、ただ、grihastaの代わりにsanyasiの考えを、世帯の環境を森林の環境に代えるだけでしょう。
しかし、心の障害物は、いつもそこにあります。
それらは、新しい環境の中で、さらに増大します。
環境の変化に助けはありません。
障害は、心です。
それは、家であろうと森林の中であろうと克服されなければなりません。
もし、あなたが、森林の中で、それをすることができるのであれば、なぜ、家の中ではできないのでしょうか?
従って、なぜ、環境を変えるのでしょうか?
あなたの努力は、今でもすることができます。たとえどのような環境の中でも、あなたは、することができます。
環境は、あなたの強い願望に従って、あなたを決して見捨てたりしません。
私を見なさい。
私は、家を出ました。
あなた方自身を見なさい。
あなたは、家庭環境を出て、ここに来ました。
あなたは、ここで、何を見つけますか?
これは、あなたが出たのと異なっていますでしょうか?
たとえ、人が、何年間も共にnirvikalpa samadhiに没入していたとしても、彼がそこから現れるとき、彼が束縛されていた環境の中で、彼自身を見つけるでしょう。
それが、アーチャーリャが、彼の優れた作品Viveka Chudamaniで、nirvikalpa samadhiよりむしろ、sahaja samadhiを強調している理由です。
人は、自発的なsahaja samadhiの中にあるべきです。つまり、それが、人の最も初期の状態の中にある。すなわち、すべての環境のさなかにあるです。

***<後略>***

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Talk 53 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 53 ラマナ・マハルシとの対話>
*2014年2月25日部分訳開始、2014年3月3日部分訳終了

***<前略>***

【マハルシ】
あなたは、眠っている間ずっと、あなた自身に気付いていません。あなたは、目覚めた状態で気付きます。目覚めているとき、あなたは、眠っていたと言います。
あなたは、深い眠りの状態で、それを知りません。
それだから、種々の想念は、身体意識とともに生じました。
この身体意識は、ある特定の時に生じました。それは、始まりと終わりがあります。
生じるものは、何かであるに違いありません。
その何かは何でしょうか?
それは、「私」という意識です。
私は、誰でしょうか?
私は、どこからでしょうか?
源を見つけることで、あなたは、絶対的な意識の状態を実現します。

【質問者】
この「私」は、誰でしょうか?
それは、感覚印象の連続したつながりにすぎないように見えます。
仏教徒の見解もまたそのように見えます。

【マハルシ】
世界は、外的ではありません。
印象は、外的な起源をもつことはありません。
なぜなら、世界は、ただ意識によってだけ、認識されることができます。
世界は、それが存在するとは言いません。
それは、あなたの印象です。
たとえそうであっても、この印象は、矛盾のないではなく、途切れないではないです。
深い眠りの中では、世界は認識されません。それから、それは、眠っている人のためにではなく、存在します。
従って、世界は、自我の後に続いて起こることです。
自我を見いだしなさい。
その源を見つけることが、最終目的です。

***<後略>***

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Talk 52 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 52 ラマナ・マハルシとの対話>
*2014年2月14日部分訳開始、2014年2月15日部分訳終了

***<前略>***

【質問者】
ハートは、何でしょうか?

【マハルシ】
それは、真我の座(もし、そのようにそれについて言われることができたなら)です。

【質問者】
それは、肉体としての心臓でしょうか?

【マハルシ】
いいえ。
それは、そこから、「私-私」が生じる座です。

***<後略>***

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Talk 50 ラマナ・マハルシとの対話
<Talk 50 ラマナ・マハルシとの対話>
*2014年2月10日直訳開始、2014年2月11日直訳終了

シュリー・バガヴァーンが、「Prabuddha Bharata」から、雨などの滴が、大洋にとけ込むということは誰もが知っていますが、大洋が、雨などの滴にとけ込むということは、少数しか知りません というカビールの言い習わしを声を出して読み上げました。
これは、para bhaktiです と彼は言いました。
 *GROSSARY:para:より高い
           bhakti:devotion:帰依
 *Talk 28:the highest form of devotion:帰依の最も高度な形

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ookuwa

Author:ookuwa
私は、英語がとても苦手なのですが、ラマナ・マハルシの教えをより深く理解するため、「Talks」の翻訳(直訳)をしています。
 * Talks直訳について
もし、転記などをされた方は、転記元(当ブログ)を明記してください(転記などをされた後、その方などが著作権を主張されますと困りますので)。
なお、「Talks」翻訳時に、日本ラマナ協会の故柳田前会長が開催した「神戸ラマナ講座」で配布された資料、柳田前会長が翻訳された本、福間巌さんが翻訳された本、shibaさんの「アルナーチャラの聖者」を参照しています。また、mixiで知り合った方からいろいろなアドバイスをいただきました。(感謝!)
*1994年日本ラマナ協会入会、2008年退会、愛知県

【Talksなどの修正・追記履歴】
2019.07.13 真我の探求方法
2019.05.25 マハルシの年表
2019.01.09 マハルシの文献
2016.03.13 Talksなどのまとめ



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